日曜日から、空き時間に読み続け、完読。
著者は、私のおばです。

日曜日は、こちらのイベントに行き。
22日(土)は、会場におばもいて、サイン会も行われていたそうです。
すれ違いで、会えなかったのですが。

さて。
NHKさんの大河ドラマ「真田丸」は、ご覧になっていますか?
ご覧になっている方も、そうでない方も、ぜひこちらの本を読んでみてください。
この物語は、歴史に沿って書かれています。
皆さんご存知の、歴史上有名な、あの人物も、あの人物も、あの場所も、あの場所も...。
これを読んだら、かなり見方がかわるかも。
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、真田幸村。
豊臣秀吉が亡くなってから1年後。
あの有名な「関ヶ原の戦い」に、真田幸村も参戦していますが、勝利したのは、徳川家康側の東軍。
豊臣方の、石田三成が率いる、西軍の武将たちは、それ以降、大変な生活を送ることになります。
真田幸村は、高野山に流されます。
そこで、阿梅(おうめ)という娘が産まれます。
九度山で、武将として復活するその時を待ち続け、14年。
豊臣秀頼から声がかかって、徳川家康の首をとるために、大阪城へと向かうのです。
しかしながら、それを果たすことは難しい状況。
大阪城の落城がせまるなか、愛する家族を守るために、幸村が考えた秘策。
それは、敵である徳川側の武将、伊達政宗のその腹心である片倉小十郎重綱に、自分の家族を保護してくれというもの。
どうでしょう、自分におきかえて考えてみたときに、このような事を思いつきますか!?
敵側の武将に、自分の愛する家族を保護してくれとお願いをする、差し出す、これは幸村にとって大きな大きな、かけだったのでは...。
それよりも、伊達政宗や、片倉小十郎重綱が「義の心」の持ち主である事、それを見抜いていたという事、そうであるはずだという、その確信があった事、それを信じたその幸村の人間性、器のすごさ。
そして。
伊達政宗の腹心、片倉小十郎重綱と伊達政宗が、幸村のその願いを受け入れたという事実に、私は強く心を打たれたのです。
あの「大阪冬の陣」から半年後に起こる「大阪夏の陣」で、戦っていた者同士ですょ!?
徳川側の「片倉隊」vs豊臣側の「大阪城五人衆」の戦いです。
幸村は重綱に、こう書状をおくります。
「われに、宝とする娘ありて候。これまで徳川軍を見渡すところ、片倉重綱殿ほど勇猛さと義を備える武将はなしにて候。われすでに、豊臣家とともに、討ち死にする覚悟にて候へ者。重綱殿に、我が娘とおさない子供らの保護、ならびに、真田家の再興を託したく、なにとぞ、お願い申し上げ候。」
本を読み進めるとそこには、重綱は、幸村に、自分の最愛の子どもたち、そして真田家の再興をたくす相手に選ばれたことに、胸を打たれていたとあります。
それにしてもです、真田幸村は敵の武将であり、その子どもたちです。
保護することは、危険だったはず。
もしこのことが、徳川家康の耳に入ったら、どういうことになっていたでしょうか。
それでも、重綱は保護を決め、政宗もそれに同意し、それからずっと幸村からたくされたものを、守り続けたのです。
本当にすごいですよね、涙が出てきてしまう。
保護することが、自分達にとって、何の利益になるのでしょうか。
利益になることがあったでしょうか。
むしろ、自分達の身が危険となる、デメリットのほうが大きかったはず。
利益のことだけを考えたら、重綱も、政宗も、すぐにでもいつでも徳川家康に、阿梅たちを差し出すことができたはず。
それを利用し、手柄とすることもできたはずなのに。
そういうことを一切せずに、受け入れ、守り続けたその人間性。
おもしろいことに、真田幸村と伊達政宗は同い年。
さらに、阿梅は後に、片倉小十郎重綱の妻になります。
義の心とは。
仁の心とは。
真田幸村の心、その思い。
片倉小十郎重綱の心、その思い。
伊達政宗の心、その思い。
決して、多くの時を共に過ごしたわけではない者同士が。
電話やメールもない時代に、離れていても、多くの時を過ごしていなくても、きっとつながったのです。
お互いの思いが。
そこには、武将としてのプライドだけではない、決してそれだけではない「何か」があるはず。
きっとそれは、例え時代が違っても、どの時代にも必ずあって。
それだけは、唯一変わらないものなのではないか。
私は、そう思います。
ぜひ、これを読んで、考えてみていただきたく。
そして、すばらしい物語を書いてくれたおばに、心から感謝します。